昭和46年11月14日 特別奉修員



 私どもと共にあって下さってあるんですけれども、私どもがその自覚に立たなければ、なるほど神様が微に入り細にわたって、このようにまあ、働いて下さるなという働きになって来ないのです。神様が確かに私と共に働いておって下されるのに、こちらに、その自覚がなければ、働きを現す事は出けない訳ですね。それはあのことあの信心がなかってもおかげはやってあると仰るように、その信心をなさっても、やはり天地の親神様の恩恵というものを受けております。
 受けとりますけれど、とくべつな本当にあの、神様有り難うございますとお礼を申し上げなければおれないほどしのおかげげが、ずっと、ここに頂けれる為にお互いがほんとの信心させてもろうて、切っても切れる事の出けない、もう、いわゆる(    )ですね。そういう神様、親神様と私ども氏子という事になって来なきゃならないですね。私ども昨日東京のお母さんが、昨日帰られましてから、お父さんとお母さん、お母さんお父さんは福岡、お母さんは久留米に帰りました。久留米の駅まで送りに参りました。
 それで愈々列車が来て、あれする行き出しましたら、良子さんが走ってずうっとつんのうち行きますもん。本当にまあまあ(    )あろうと思う。だからもうとうとう見えんごんなったら泣き出してしまってから、もう私どんはこっちの方からこうちなったら、もう自分がひとりずうっと、もう走って行くとこ行くとこまで遠く手をふってから、あのついて行きますからね。はあこれが親子の情じゃろうと私は思いましてね。
 だから是は私どもが、なら良子さんとあのくらいな情が濃いものになって行く事のためには、まあだまだ、これから大変な修行がいるなと思いましたね。あれに匹敵するほどしの親子になって行くという事ですね。ほんに、血の繋がりと。?は汚いもんだとか申しますけれども。そんなもんですよ、やはりね。ですから、そこまで、あの、高められて行く事のために、いわゆる親子、姑親と嫁とのこれからの修行が、また始まるのと、いう感じなんですけれども。
 先ほど、佐田さんのお届けを聞かせて頂いておりますと、それが、あの本当に長い間の修行、まあ、まあ、言うならお母さんとも有り難いけれども、お父さんは何かもう、これじゃ、こう大事に行かんと思いながら出来ないと。(       )一生懸命、まあ、一生懸命精進されて行かれる内にね、そのお父さんが、もう可愛うして堪えんごとある気持ちになって。撫でさすりしょうごと有り難うなって来られたと。
 ところがその最近、お父さんが病院に入っておられますから、たまたま行かれると、もう看護婦さん達やら、もうよかち言うちから怒って話せんげなけど、もう恵美子さんが行くと、入れとらにゃん手をこう出してから、もうその握ってくれっちそして摩ってくれっち言うてから言いなさるそうですたい。もう本当に神様の演出とは思うけれどもね、その神様(     )あれありますから。
 言うなら元姑親お父さんとか、本当にあのそれこそ嫁に手を握ってくれ、手を摩ってくれと言うて、そのひっきりなしに、まあその嫁の情を求められておるね。はあここまで行く為には、やっぱ、相当の修行がいるなというような事を思いましたがね。今朝からあの、秋山さんがお夢を頂いてね、大田つもりさんという人と結婚しとる。何かその方は女の方だそうですけどね、近所の方だそうです。
 そのと言う様な、そのお知らせを頂いたと言うんですよ。ところがまだ一回も寝た事がないち言う様なお夢じゃったち言うんです。本当にあのそれはね言いまた、本当に素晴らしい信心を頂いて行きよりますけれども、なら神様の目からご覧になりゃ、まあだ大田つもりぐらいなこっちゃなかろうかねて私が申しました。太田つもりっちゃ、めしんというね、神に会うということ。めしん神に会う。ね、
 その神様と一体にあるようにあるけれども、まだあるつもり大田つもりぐらい。太田つもりぐらいだと。この大田つもりという、その名前を神様が、まあ感じさった訳でしょうけれども。信心しとりますという、信心しとるつもりでおってもですね、本当な事は、今良子さんが、そのお母さんとしばらくの別れの(     )走ってついて行こうごとある。そしてとうとう見えんごとなったら泣き出すぐらいの情がですかね。
 なら神様と私どもの間に出けるぐらいなものが、本当の繋がりが出けた、本当のいわゆる神様との、いわゆる結びつきが出けたという事になるんじゃないでしょうかね。私どもはまあ大田つもり。信心しよるつもりぐらいなところじゃなかろうかと思います。神様がこう?れておる。神様が手を指すってくれと仰るような所まで一つ行きたいですね。
   どうぞ。